8月半ば、皆既日食を見るためにサラゴサに行く前に、マドリードから西に70キロほどのところにあるトレド Toledo という街を訪れた。

トレドは、6世紀の西ゴート王国時代から1561年にマドリードへ遷都されるまで、1000年もの長いあいだスペインの歴史的な首都として機能していた。スペイン人にとっては日本の京都のような特別な場所で、また、画家エル・グレコとゆかりのある街として私は以前から興味があった。ギリシャのクレタ島出身のエル・グレコは、イタリアを経て1577年にトレドに移り、それから亡くなるまで37年この地に住んだのだ。

ずっと憧れていた街に2泊するとあっていろいろ下調べをしていたのだが、まず、マドリードの空港で私たちのスーツケースが出てこないというハプニングに見舞われ、調子が狂ってしまった。

荷物紛失(この時点では遅延)の手続きを空港で済ませたあと、マドリードからアト―チャ駅までなぜか電車でスムーズにたどり着けず、途中からタクシーを拾う羽目に。アトーチャ駅ではトレドまでの切符が発券機からなぜか出てこず、有人のカウンターに並ぶことに(係員の若い男の子は、発券機の不具合はよくあることだと言っていた)。すべてが思った以上にややこしく時間がかかり、40度近くの暑さも手伝って、トレドに着いたころには観光などする気は完全に失せていた。

ダブリンを朝早く出て午後 2時ごろにトレドに到着。アパートメントホテルは坂の多いトレドの旧市街にあり、アパートの建つ道も急な坂になっている。

チェックイン時、アパートにはワインやパンなどがサービスで用意されていて嬉しかった。

疲れていたが、イベリコハムたっぷりのバゲットサンドを食べてちょっと元気に。

エクアドル出身の奥さんとスペイン人のダンナさんからなるアパートのオーナー夫婦は、本当に心温かい人たちだった。スーツケースがないために歯ブラシから何からすべて買わなければならない私たちを気の毒がり、旧市街の外のショッピングモールに車で連れて行ってくれた。そこには、Primark というアイルランドでは Pennys として展開している衣服などの大型量販店もあり、安価で数日分の着替えなどを買うことができた。親切なご夫婦は、買い物の帰りには、トレドの街を一望できる見晴らしのよい高台にわざわざ立ち寄ってくれた。

トレドは街の三方をタホ川に囲まれた小高い丘にある。写真中央左の背の高い塔のある建物がトレド大聖堂。

一日目はこれでおしまい。翌日、気を取り直して観光をしようとトレドの旧市街を大聖堂に向かって歩き出した。ところが、ここでまたしてもハプニングが起こった。

スマホの地図に気を取られて地面をよく見なかった私の右足が、石畳の細い段差の部分に変な角度に入った。足首がポキポキッと鳴るのを聞いたとたんに足を段差から引き上げたが、バランスを崩して道に手をついてしまった。

ふう。何とか起き上がれそう。

夫が心配そうに「歩ける?」と聞いてくる。「大丈夫だと思う」と自分を納得させるように言い、そろそろと歩き出した。トレド大聖堂までほんの数分の距離だったので、ゆっくり歩けば問題はなさそうだった。

トレド大聖堂(正式名称はサンタ・マリア・デ・トレド大聖堂 Catedral de Santa María de Toledo)は、1226年に着工し1493年に完成したスペイン・カトリックの総本山だ。高さ90mの美しい鐘楼と豪華な内装を持つゴシック建築の最高峰として知られている。

大聖堂内は恐ろしく広い。どこを向いても豪華絢爛で、足の赴くままに地下聖堂だの聖具室だのを見て回っているうちに、足首が腫れて痛くなってきた。

マリア像の後ろの聖歌隊席には、グラナダ戦争における各都市の陥落の様子など、歴史的な物語や聖書の物語の緻密な木彫りのレリーフが施されている。せり出すように向かい合って設置された 2台のパイプオルガンも迫力あり。

聖具室 Sacristy が美術館になっている。圧巻は中央にあるエル・グレコの初期の傑作『キリストの聖衣剝奪』。彼の作品はこの部屋だけでも十数点見られる。

カラヴァッジョの『洗礼者聖ヨハネ San Juan Boutista』。絵を目の前にしたときは聖ヨハネの色気に圧倒されるばかりだったが、今改めて見ると、彼の足首が気になる。

大聖堂の見学のあとはエル・グレコの名を冠した美術館に行く予定だったが、足首がいよいよ悲鳴を上げてきたので、予定は全部キャンセルしてアパートに戻って休み、翌日のサラゴサ行きに備えるのが賢明と思われた。

薬局に立ち寄り、グーグル翻訳で「捻挫した」とスペイン語で伝えると、流暢な英語で対応してくれた。勧められるままに冷却スプレーを買い、朝夕に足首にスプレーをかけて炎症を抑えるようにした。

アパートへの帰りがけに入ったチーズケーキ専門店で、2024年に「スペイン一のマンチェゴチーズケーキ」賞を受賞した店、Materia Pedro Trujillo。

ミニチーズケーキ(7ユーロ)をひとつ購入。トレド地元産のマンチェゴチーズを使った、濃厚でクリーミーなチーズケーキのおいしさは、口に入れた途端に夫と思わず顔を見合わせたほど。これをまた食べるためにトレドに行く価値あり。

1919年に現在の形で建設されたトレド鉄道駅(Estación de Toledo)は、トレドの玄関口。

イスラムとキリストの文化が融合した美しいネオ・ムデハル様式の駅舎。

天井が高く、ステンドグラスも見事。時計の下の部分は以前は切符売り場の窓口だった。

トレドよ、また近いうちに帰ってきてちゃんと観光するからね、と後ろ髪を引かれる思いで翌日朝に古都を後にし、マドリード経由でサラゴサに移動した。足を引きずりつつだったが、皆既日食の観測という大目的を達成してダブリンに戻ったころには、右足首の腫れは徐々に治まっていった。

このままよくなっていくだろうと、病院に行くこともせずに、仕事に遊びに、普段の生活を再開。すぐにこのことを後悔することになる。