夫との旅行の行き先を決めるのはたいてい私。もしかしてこれまで20年間、全部私が決めてきた? いえ、でも今回は違いました。

2026年8月12日の夜(日本時間は13日の未明)、太陽が月にすべて隠される「皆既日食」が起こった。月の影が地球上に落ちるごく狭い地域(皆既帯)でしか見られず、広い地域では太陽の一部が隠れる「部分日食」になる。

去年の今ごろから、夫はこの皆既日食が見たいとつぶやいていた。アイスランドやスペイン北部、ポルトガル北東部などが皆既帯となる。スペインでは友人夫婦の住むサラゴサ Zaragoza が観測のホットスポットのひとつになるとわかったので、「じゃ、彼らのところにお邪魔していっしょに皆既日食を見よう」と話を進めることに。

友人夫婦は20年ほど前に数年間ダブリンに住んでおり、ここ数年は娘さんも連れてダブリンに遊びに来ている。奥さんの方はサラゴサの中学校の英語の教師だ。その「教師魂」を発揮して、今回、どこで皆既日食を見るのがいいか、いろいろ調べてくれた。

皆既日食は一年半に一度ほど、世界のどこかで見ることができる。しかし行きやすい場所で、また気象条件がいいとなると、数年に一度程度になってしまう。日本では2009年に奄美諸島などで見られ、次の2035年には北陸や関東地方でも見られるようだ。

今年、ヨーロッパ本土で見られるのは27年ぶり、スペイン本土で観測できるのは100年以上ぶりということで、8月が近づくとスペイン中が盛り上がってきたという。皆既日食が目的でわざわざサラゴサを訪れる人も多くなる。街での人込みを避けるため、奥さんのご両親が生まれ育ったサラゴサ郊外の村で見ることになった。

太陽を直視してはいけないから、観測用のメガネが必須。夫は紙製の日食用メガネをアイルランド天文学会 Astronomy Ireland からネットで注文した。

古都サラゴサは、スペインの首都マドリードから北東に約 300キロ離れたところにある。

スペインに飛び立ったのは8月10日。その週はアイルランドでもいい天気だったが、スペインの暑さはアイルランドの比ではない。マドリードの空港からタクシーで鉄道駅に着いたとき、道路の脇に「40°C」という表示が出ているのを見て、来たぞ、と覚悟をした。

タクシーを降りて鉄道駅までの、ほんの数十メートルの距離が果てしなく長く感じられた。木陰のない交差点を渡るときに太陽が肌を直接じりじりと焼きつけてくる。湿度も高い。日本の最近の夏が「サウナの中を歩いているみたい」だと聞いていたが、まさにこれがそうか、とうなった。

冷房の効いた快適な高速電車に揺られてサラゴサ駅に着くと、友人夫婦のダンナの方が迎えに来てくれた。車で一時間ほど走り、人口数百人の小さな村に降り立った。奥さんと娘さんはすでに村で数日過ごしているという。

スペイン時間の午後7時半ごろ、月が太陽の端に少しだけ重なり始め、太陽が欠け始める。それに間に合うように我々は観測スポットに向かった。この村でも誰もがここ数日大騒ぎをしていたそうで、観測用のメガネが手に入らなかった人たちは、段ボールでピンホール投影機(プロジェクター)を作ったりして、この珍しい天文ショーに備えていた。

友人の下調べにより「ベストスポット」のお眼鏡にかなった丘の上を目指す。椅子も運ぶ用意周到な村の子どもたちも。頂上にある古い教会が日影を作り、ティーンエージャーたちがたむろすることとなった。

我々は古ぼけたベンチに座り、見渡す限り丘陵が広がる中、太陽の右側の欠けが徐々に大きくなり三日月のような形になっていくのを見守る。普通のカメラで収めるとこのとおりだが、日食用メガネをかけるとしっかり三日月に見える。

ちょうど太陽が沈む夕暮れどきに、太陽が完全に月に覆われる「皆既」となり、拍手歓声がわき起こった。黒い太陽の周りには普段見えないコロナが取り巻く天文現象が起こる。この 1分ほどのあいだだけは裸眼で太陽を見つめられるという特別な体験もできた。

その後、太陽は反対向きの三日月として再び姿を現し、約一時間かけて元の丸い形に戻っていった。

午後7時半ごろから9時半ごろまでの約2時間、私たちは、ただただ空を眺めていた。丘の上は暑かった。暑いから何も考えられない。数分おきに日食用メガネをかけて太陽の変化を見つめ、時おり村の子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる中、ひたすらぼーっとしていた。夫は本当に嬉しそうだった。

この日の夜中、もう一つの特別な天体現象が起こった。ペルセウス座流星群が活動のピークを迎え、夜空の広い範囲に放射状にいくつもの彗星(すい星)が見られたのだ。

私たちは皆既日食のあとに家に帰って軽く夕食を済ませ、今度はすい星を見るために村の開けた場所に行った。みなで横になり、一時間ほど夜空を見上げた。近所の村人たちも出てきていて、先ほどの皆既日食をどこで見たか、友人夫婦と話に興じていた。

満点の星空(写真ではなかなかわからないかな)。

私にとっては生まれて初めて見るすい星。「今の見た?」「見えなかった!」「あっちの方!」といちいち盛り上がった。長短さまざまの尾を引くほうき星を何個も目撃して、私の口はあんぐりと開いたままだった。

「死ぬ前にやりたいこと」を書き出したリストのことを「バケットリスト bucket list」という。「死ぬ」の俗語である  kick the bucket(バケツを蹴る)から生まれた、よく使う表現だ。夫のバケットリストのひとつが、皆既日食を見ることだったらしい。友人夫婦のお陰で、ひとつクリアできました。