昨年の秋ダブリンで、日本の名字をもつスペイン人と偶然出会った。彼の先祖に日本人がいて、「伊達政宗に派遣されて日本からヨーロッパに渡った人たちのひとり」なのだという。

私はそのころちょうどクルーズ旅行の下調べにとりかかっており、寄港先のひとつであるイタリアのチビタベッキア Civitavecchia という場所が何やらその使節団とゆかりがあるということを伝えると、彼はとても喜んだ。

慶長年間の1613年、仙台藩主の伊達政宗は、徳川家康の許しを得てヨーロッパに180名余の一団を遣わした。これが慶長遣欧(けいちょうけんおう)使節団だ。主な目的は当時の覇権国のひとつスペインと仙台藩との通商交渉だが、通訳として使節団の正使を務めたフランシスコ会の宣教師の布教活動に利用されたという説もあるようだ。

使節団の福使で実質的なリーダーだった支倉常長(はせくら つねなが)の像が、現在のチビタベッキアの街中に立っていると知り、それならぜひこの目で確かめなくてはと思った。

クルーズ船での本日の朝食はスクランブルエッグ、ソーセージなど。写真左下のビスケットは、中がサクサクッとした素朴な味が気に入り、毎朝食べるのが日課となった。

チビタベッキア港に到着しシャトルバスに乗り込む。降ろされたバス停から直線距離を 10分も歩くと、お侍さんの像が視界に入ってきた。

イタリアの街角に立つ支倉常長像。日本の出発地である石巻市とチビタベッキアは姉妹都市で、石巻市月浦(つきのうら)の展望台に同じ像があるそうだ。

17世紀はじめ、使節団は 7年もかけてメキシコ、スペイン、ローマを回り、フィリピンを経て日本に戻ってきた。スペインのマドリードでフィリペ3世との謁見に成功し、今度はローマ教皇に会うためチビタベッキアに上陸、ここから60キロほどを陸路でローマに向かった。

支倉像の背後はもう海岸だ。16世紀前半に完成した港湾防衛のためのミケランジェロ要塞 Forte Michelangelo がぐるっと街を取り囲んでいる。

スペインやイタリアで大歓迎を受けたという支倉の一行の中には、数年に渡る欧州滞在のあいだに現地に溶け込み、定着する人も少なくなかったそうだ。その末裔の一人とダブリンで会ったのだから、歴史のどんな場面も自分とどこかでつながっている可能性があるんだなと、何だかぞくぞくする。

ローマの海の玄関口であるチビタベッキアには、支倉常長像以外にも日本と深いかかわりのある場所がある。

慶長遣欧使節を十数年遡ること1597年、豊臣秀吉の命によって、日本人と外国人の合わせて26名がキリスト教の信仰を理由に長崎で処刑された。日本で最初の殉教者となった彼らは1862年にカトリック教会によって聖人の列に加えられた(日本二十六聖人)。その後、支倉の使節団とゆかりの深いこのチビタベッキアに、二十六聖人を記念して日本聖殉教者教会が建てられたのだ。

教会は第二次世界大戦中に破壊されたが、1948年に再建。日本画家の長谷川路可(はせがわ ろか、1895~1967)が内装制作の責任者として呼ばれ、壁画等の内装が一新された。

自らもカトリック教徒だった長谷川が描いた着物姿の聖母子像を見るために、私は支倉像からさらに20分ほど歩いた。

日本聖殉教者教会 Chiesa dei Santi Martiri Giapponesi(Church of the Holy Martyrs of Japan)。長崎での殉教者にはフランシスコ修道会の宣教師 6人が含まれていたことから、フランシスコ会修道院に付随する教会として建立。教会の外観からは日本との関係は明らかではない。

少し薄暗い教会の中。正面の天井画に「日本聖殉教者」という漢字がある。中央が聖母子、左が聖フランシスコ・ザビエル、右がアッシジの聖フランシスコ。下の壁画には殉教者たちが磔(はりつけ)の刑に課されるまでのいくつかの場面が展開する。

桃山時代の着物を着た聖母マリア。日本の代表的な家紋が着物の模様としてあしらわれている。

十字架に処されたのは、日本人は12歳から14歳の3人の少年を含め20人、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれひとり(全員男性)。聖壇左側の壁画の左下には、長谷川が自画像を加えている。50代半ばにしてイタリアに渡りこの仕事を成し遂げた長谷川は、1960年に菊池寛賞を受賞している。

長谷川は天井の左側に支倉常長も描いた。

教会の近くの道沿いには、支倉ら慶長遣欧使節団の足跡をたどる 10枚ほどのパネル画がある。

人気のない教会にしばらくいると、日本人の男女が入ってきて、同様に壁画を眺め始めた。話しかけると、同じクルーズ船の乗客だとわかった。ふたりは教会に来る前に、近くの海の見えるレストランでおいしい魚介料理を食べたのだという。そう聞いたら私もおなかがすいてきた。

街中にあるサン・ロレンツォ市場に行ってみたが、もう午後をしばらく回っていたので市場は閉まっていた。ふむ、と少し考え、支倉像の近くまで戻り、その辺のカフェでトマト味の小さなピザなようなものを食べた。

クルーズ乗客の多くはチビタベッキアの街には入らず、ローマに日帰り旅行をしたり船内に留まったりしたようだ。私にとっては、イタリアの古い港町と日本との縁が記憶に刻まれる貴重な時間となった。