まだ2月末だが、今年はもう一年分くらいハグをした。

年が明けて一週間ほどしたころ、義母が倒れたという知らせが夫の実家から舞い込んだ。義母は車で一時間ほどの病院に運ばれたという。夫と私は翌日病院に向かい、義母を見舞った。夫はその夜から実家に戻ってそこから毎日病院に行くことになり、私もダブリンから電車とバスでできるだけ病院に通う日々が始まった。

1月上旬、アイルランドは大雪に見舞われた。ダブリンの街中では雪は積もらなかったが、夫の実家やリムリック Limerick の病院の近辺では車の運転が困難なほど雪が数日残り、電車の車窓からの景色もこのとおり。

ダブリンからリムリックまでは電車で2時間前後、さらにバスを拾ってリムリックの病院へ。1月上旬はまだどこもクリスマスの飾りつけが残っている。これはリムリック鉄道駅の出入口のドアに描かれた模様だが、下のペンギン、これはドラえもんでしょう!

義母はしばらくして緩和ケアのためにリムリック大学の近くのホスピスに移され、それから数日して帰らぬ人となった。すでに彼女の夫は十数年前に他界しており、遺されたのは私の夫とその兄である 2人の息子たち、数人の兄妹たちなど。義母の妹の一人は長く住むオーストラリアから駆けつけて、義母の最後の数週間を見届けた。

カトリックの通夜は wake ウェイクあるいは visitation などと呼ばれ、棺(ひつぎ)の周りに遺族が並び、弔問客が遺族一人ひとりをまわって言葉をかける習慣がある。義母の場合も含め、多くの場合は open coffin、つまり通夜のあいだ棺の蓋は取られてオープンの状態だ。棺の中に横たわる故人に、遺族や弔問客がキスをしたり手や額を触ったりして最後のお別れをする。

義母の通夜にはいったい何十人、何百人の人が来たのだろう。夫の従弟たちも含め、私たち遺族は次から次へとやってくる弔問客と握手をし、よく知る義母の友人や隣人たちと肩を抱き合って悲しみの言葉を言い合っていたら、あっという間に2時間が過ぎていた。

義母は数年前に乳がんを患ってからも、闘病生活の中で新たな友人を得ていたようだ。がんの自主支援グループの女性たちはもちろん、よく行っていた薬局の店員たちまで弔問に来て、「Great lady」と義母のことを口にした。

翌日は追悼ミサが義母の家の近くの教会で行われた。ここにもたくさんの人たちが訪れ、ミサのあと、前列に座っている私たち遺族にまた一人ずつ挨拶に来てくれた。

教会を出て、義母の埋葬  burial のために皆でゆっくりと墓地へ向かう。埋葬のあいだに降っていた小雨が止むと虹がきれいに出た。義父と義母が眠るこの墓地に、私と夫もいつか葬られることになるんだな…。

通夜や追悼ミサの手順などのマニュアル。葬儀屋から手渡された。

近所の人たちからの差し入れが後を絶たずに届く。十字の印のついた小さなケーキ bun にはジャムが中に入っているが、なぜかチーズケーキと呼ばれているらしい。

埋葬の翌日はアイルランド全土に嵐がやってきて、実家の辺りも停電になった。まだ日が昇りきらない朝、ろうそくをたくさんつけて部屋を照らし、義母がよくやっていたように窓の外を見やる。

この数週間は、ダブリンからリムリック、夫の実家、そしてまたダブリンへと移動ばかりで、自分が今どこに向かっているかわからなくなるときもあった。仕事も途切れ途切れになったが、職場では数日ぶりに誰かと会うたびに「大変だね」と声をかけられた。仲のよい同僚は「You poor thing 可哀そうに!」と大きく両手を開いて抱きしめてくれた。

最近は「ハグ hug」という言葉が日本語として市民権を得たようだ。抱きしめる、抱擁する、肩を抱き合う、といった表現はときにはちょっと大仰で使いづらい。相手を引き寄せて「よしよし」と軽く後ろ肩をたたくような仕草は「ハグする」というのがぴったりなのかもしれない。

アイルランドではよくハグをする。私のハグはまだまだ及び腰だが、今年はいつもよりたくさんハグをして、だんだんコツがつかめてきた気がする。